世の中には、すべての差別を肯定する人もいるでしょうが、そういう人は稀でしょう。大抵の「差別肯定派」は、「○○差別には反対だが、××差別は容認する」という人たちでしょう。あのヒトラーですら、そうだったのではないでしょうか? 「人種差別」にのみ、異常なまでに固執した、ということではないでしょうか?
今の日本で言えば、その典型は、「女性差別には(大)反対だが、男性差別は容認する」という人たちでしょう。しかも、この「男性差別肯定派」の勢力は強大で、その差別的思想は日本中を席巻しています。それを具現化したのが、「女性専用車両」であり、「ポジティブ・アクション」なのです。
あるいは、「男性差別には反対だが、××差別は容認する」という人たちもいます。たとえば、「男性差別には反対だが、朝鮮人差別は容認する」という「差別肯定派」がいます。また、「男性差別には反対だが、年齢差別や学歴差別は容認する」という「差別肯定派」もいます。
しかも、こういう人たちは、自分のことを「差別肯定派」、すなわち、「差別主義者」だと思っていない可能性があります。「私は、女性差別に反対しているのだから、差別主義者ではない」、「自分は、男性差別に反対しているのだから、差別主義者ではない」というわけです。しかし、「女性差別に反対でも、男性差別を容認」なら、「差別主義者」ですし、「男性差別に反対でも、朝鮮人差別、年齢差別、あるいは、学歴差別を容認」なら、「差別主義者」です。
ところで、私・ドクター差別は、「差別主義者」を2つに分けてみました。1つは、すべての差別を肯定する「(真正)差別主義者」、そして、もう1つは、ある差別には反対し、別の差別は容認する「準差別主義者」です。ただし、「(真正)差別主義者」が悪質で、「準差別主義者」はそれほどでもない、というわけではありません。「(真正)差別主義者」であろうと、「準差別主義者」であろうと、それ自体よりも、差別の程度の方がより問題です。
たとえば、「(真正)差別主義者」であっても、口先だけで、実際、それを行動に移さなければ、大したことではありません。(注:ただし、本人の目の前で言えば、「口先」だけでも問題である)。一方、「準差別主義者」であっても、その言動が極めて悪質であれば、深刻な人権侵害となるでしょう(注:前述のヒトラーは、その類だろう)。幸い、世の中の「(真正)差別主義者」、「準差別主義者」は、大抵、口先だけの人が多いでしょう。
と言うか、いずれの場合も、個人による差別は大事(おおごと)になることは稀です。イジメと同様、問題になるのは、集団による(個人への)差別です。まして、企業が差別をする、国や自治体が差別をする、となると、大きな社会問題になる、というわけです。
と言うことで、「(真正)差別主義者」だから悪い、「準差別主義者」だからそうでもない、というわけではありませんが、「(真正)差別主義者」よりも「準差別主義者」の方が、「差別主義者」から脱却しやすいとは言えるでしょう。なぜなら、「準差別主義者」は、少なくとも、1つの差別には反対しているからです。
つまり、すべての差別を肯定する「(真正)差別主義者」の偏見を払拭することは極めて難しいでしょうが、「準差別主義者」の思い込み、勘違いは、それを気づかせることで、「差別主義者」からの脱却は可能だということです。そもそも、「女性差別がいけなくて、男性差別はいい」はずがないのです。「男性差別がいけなくで、朝鮮人差別はいい、あるいは、年齢差別や学歴差別はいい」はずがないのです。これさえ気づけば、「準差別主義者」は、「差別主義者」から脱却できるでしょう。