私・ドクター差別は、「遵法主義者」であるが、同時に、「自由(意思尊重)主義者」でもある。だから、法律・ルールは遵守し、その上で、自分の主義・主張を通そうとする。もし、法律・ルールに不備があれば、ローザ・パークス女史の場合などは例外として、法律・ルールを破ることなく、それを改正しようとする。
こういう考え方だからこそ、「女性専用車」の存在は許せない。何しろ、「女性専用車」は、男性の「自由意思」を蔑ろにしている。「女性専用車」という名称・表記自体、「自由意思」に反しているし、鉄道員の(男性への)声掛けも、男性の「自由意思」を蔑ろしている。「お願いだから、いいだろう」なんて理屈が通用するわけがない。
「お願い」と言えば、「優先席」も、同じ「任意(の協力)」だが、鉄道員が(しつこく)声掛けしているのを見たことがない。なぜ、「優先席」の場合は、声掛けしないのか? 必要性からすれば、こちら(=優先席)の方が大事だろうに?
てか、ドクター差別は「優先席」すら、否定的である。なぜなら、「自由意思」に背いて、協力を押しつける危険性があるからである。車掌が、「優先席」の案内なんぞすれば、それは「自由意思」を蔑ろすることになる。
「善意」を強要してどうする? 「善意」は、自発的に行われなければ、何の意味もない。しかも、「優先席」があると、逆に「他の席では譲らなくていい」となりやすい。「優先席」でなくてもどこでも、弱者には席を譲る、こうでなくては「善意」とは言えない。
ところが、「女性専用車」は、「優先席」以下、どうしようもない代物である。①「専用」なんてウソをついて利用者を騙している、②「協力」する男性を痴漢と見なして(あるいは、単に「男」だという理由で)排除しようとしている、③「女性(すべて)が弱者というわけではない」のに優遇しようとしている。こんな(いい加減な)代物に、「理解」も、「協力」もできるわけがない。
まあ、「自由意思」を蔑ろにされても、何も感じない男性もいるだろう。どんなルール(であるかのように見せかけているステッカーの文言)にも従順に従う男性利用者、どんなルール(=裏マニュアル)でも指示されたら従順に従う鉄道係員、両者が「女性専用車」を存続させている。ドクター差別にしてみれば、あえて強い言い方をすれば、どちらも、まるで「ロボット(=操り人形)」である。